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存在感

良く言われる「存在感」とはなんでしょうか? 人によってはオーラなんて言い方をしたりしますが,,,, ============= 以前、大河ドラマで福山雅治さんと初めてお会いした時、いわゆるオーラを感じました。 というより、あまりにメディアに露出されている方なので、初めてなのに初めてではない不思議な感覚に襲われました。 しかしその感覚もしばらくすると、次第に薄れていきます。 その時、ふと「オーラ」と呼ばれるものは、見る側が勝手に感じるものなのかもしれないと気づきました。 ============ ある時、ワークショップでモデルの方数名とご一緒したことがあります。 演技経験はほとんどないという話だったのですが、何とも言えない「存在感」があります。 初対面の演出家やプロデューサーの前では大抵の俳優は緊張します。 しかし、彼らにはその緊張が見えないのです。 確かに演技は経験ないのでしょうが、彼らはファッションショーや撮影など、人目に触れた状態で堂々と存在する訓練は受けています。 見られることに物怖じせずに堂々としている様は気持ちの良いものです。 「存在感がある」の対極が「頼りない」だとすると彼らはとても頼れる存在だと感じました。 それはまるでカメラに囲まれた中でも優れた成績を残すアスリートのようでした。 ============== 今までの観劇体験で一番刺激的だったのは、「ポツドール」という団体です。 演出の三浦大輔さんは最近では「何者」や「娼年」などの作品でも活躍されています。 初めて観たのは岸田国士戯曲賞受賞後初めての公演でした。 「夢の城」という舞台でシアタートップスで上演されました。 幕が開くとベランダを外側から覗くように舞台上で複数の男女、いわばギャルとギャル男の生態が展開されます。 冒頭10分前後でしょうか? ベランダ越しになんてことはない(こともないのですが(笑))生活を覗かされます。 車が行き交う音がSEで聞こえています。 そう、まるで向かいのマンションから覗いているような気持ちになってきます。 それも完売ですし詰めの客席が一体となって、見てはいけないものを見せられている気分です。 その後、暗転を挟み、ベランダが取り払われ舞台上に部屋が存在するだけになるのですが、何とも言えない刺激的な幕開けでした。

「相手」という間口から入るということ

お芝居には様々なアプローチがありますが、一番難しく、そして面白い部分と言えば「相手役」との関わり方です。 一人で台本を読んでいた時の想像通りに相手役が演じてくれることはまずありません。 舞台の稽古で演出家の言っていることは理解できる、ただ共演者とそれをどう実現したらよいかわからないということは度々起こります。 場合によっては、「相手役は理解していないけど自分は理解できている」と思うこともあります。 しかし、あくまで「相手役と一緒に」演出の要求に応えられる、その先に行けるかが大事なのです。 遠回りに見えるかもしれませんが、相手役との距離感、信頼関係をお客さんは敏感に察知します。 舞台には美術や照明など世界観を感じるためのヒントが散りばめられています。しかしいつもスムーズにその世界観をお客さんが感じ取ってくれるとは限りません。 そんな中、最もリアルでお客さんにとって最も有効なヒントは舞台上の人間、つまり俳優です。 仮に舞台上にいる人間を信じられなければ、美術や小道具がどんなにリアルでも、お客さんにはどこか物足りなさが残ってしまいます。 相性があるので最初から相手役と上手く行くとは限りません。 しかし相手とどうやって信頼関係を結ぶかも俳優の大事なスキルのひとつだと感じます。 あくまで「相手という間口」から劇世界に入ること、拡げることを第一としてみて下さい。

繰り返すということ

今回は、演劇ならではの「繰り返すこと」についてお話します。 前回までの内容を踏まえると、 諦めないことが新鮮に相手と向き合うことにつながるとお話しましたが、 繰り返すことがここに加わることがどう作用するかお話します。 繰り返すということについて考える時、 いつもロミオとジュリエットと例出して考えます。 ロミオもジュリエットも結ばれようと全力で相手を求めます。 その諦めない姿勢が悲劇的な結末へと物語を進めていきます。 物語の中では初めて出会い、求め、結ばれようとするのですが、 舞台俳優はそれを数えきれないほど繰り返します(笑)。 例えば18回公演であれば18回ロミオはジュリエットと結ばれようと試みます。 稽古が1月あるとして乱暴に30回足せば、48回です。 48回も「初めて」を繰り返すのです。 あり得ないシチュエーションのようですが、 実は皆さんの多くも経験していることです。 たとえばベッド中で試験の夢を。 初恋の思い出を何度も思い出し。 あの時ああしていれば・・・。 あの時ああしたのになぜあの人は・・? 舞台俳優も同じことをします。 台詞は変えられません。 しかしどうすれば結ばれるのか工夫します。 48回結ばれようとトライするのです。 そうすると何が起こるか? コミュニケーションの純度が上がります。 そのシチュエーションで考えられるあらゆる選択肢を総動員して、 運命を変えようとします。 くどいようですが、台詞は変えずに。 そうして純度の上がった言葉は 同じように人生を繰り返すことが許されない観客の感性に突き刺さります。 後悔や懐かしさ、愛しさ、得も言われぬ幸福感など様々な感情が観客の中に蘇ります。 そんな俳優の姿はルールに縛られながら、 繰り返し目標へと懸命に手を伸ばすスポーツ選手のようです。 だから人は結末が分かっている古典を繰り返し観るのです。 その役を通して人が、魂がどこまで純度を上げられるか目撃する為に。

諦めないということ

前回は、伝えることを諦めないことがコミュニケーションの鮮度を保ち、 観るものを感動させるというお話をさせて頂きました。 今回は実際に演劇の現場で起きたことを踏まえ、 「諦めない」ということについてお話します。 前回お話した営業の仕事と舞台の「諦めない」で少し違うかなと思うのは、 「同じ相手と」繰り返すという点です。 舞台の現場で体調不良で欠席する人にあったことはありません。 ほぼ毎日当然の様に集まってきます。 これが落とし穴です。 営業のようにお客さん(相手)をつなぎ留めようというエネルギーが希薄になりがちなのです。 しかし、たとえば、漠然とした「愛情」のようなものは、 相手をつなぎ止めようとするエネルギーを媒介にして伝わったりします。 観客はよーくそれを見ています。感じています。 それは日常でも行われ、というより生まれたその瞬間から行われ、 人間が本来持ち合わせている感情だからです。 ある時、ロバート・アラン・アッカーマンという演出家に教わった時に、 「諦めない」ことのパワーを間のあたりにしました。 彼はトム・クルーズやアルパチーノも演出したアメリカ演劇を代表する巨匠と呼ばれる方でした。 それは私の大好きな戯曲「橋からの眺め」の1シーンでした。 働きに出たい女の子が保護者である叔父の許しを得るシーンです。 演じた女優さんは全くの新人で、女優と言えるかも不確かでしたが、 一度シーンを見終わると、その演出家は「諦めている」と言いました。 女優さんは経験もないのでわけもわからず、 ただ言われるまま、もう一度シーンを頭から始めると、 「そこ!今、諦めた」と止められました。 「働きにださせてもらえるよう諦めるな」と。 そこで見た衝撃は忘れられません。 その経験のない女優さんは自分の演技経験ではなく、自分の人生経験を以て、 「諦めない」ことをやり始めたのです。 それは生々しく、素晴らしいものでした。 説得力がありました。 私たちは俳優はとかく先読みして諦めないことを個人で表現してしまいがちです。 しかし、観客は相手との間にあるものを観ているのです。 それに気づかされた貴重な経験でした。

新鮮であること

初心者からベテランに至るまで、 「初めて起きたこととして新鮮である」ことは大きな課題です。 樹木希林さんとCMの仕事でご一緒した時、 「新鮮じゃなくなるから、リハーサルを繰り返すのは止めよう」と 監督に仰っていたのを思い出します。 あれほどキャリアがある女優さんでも、 新鮮さを失うことの怖さを感じてるのだなあ、と感心したことを思い出します。 しかし、舞台となればそれこそ数えきれないほど繰り返します。 「新鮮さを失うからもう稽古にはいきません」とは言えません。 ある時、深く突き詰めて考えたことがあります。 そこで行き着いたのが、 「失う以上に何かを増やしていくしかない」ということです。 営業さんに喩えると分かりやすいでしょうか。 新人でいきなりトップになる営業さんもいれば、 何か月も連続でトップになる営業さんもいます。 新鮮さが経験を上回ることもあれば、 経験がトップを守らせることもあります。 営業として働いたことがありますが、 ある時、長年トップをとっている先輩の執着心に驚いたことがあります。 その先輩は「このお客さんは無理」と諦めることを極端に怖れていました。 お客さんのどんな断りにも折れずにとっかかりを見つけ、 売り込んでいく姿に心底感服しました。 毎月もらえるトップの報奨金で買ったのか、 華やかな洋服に身を包んだ綺麗な女性でしたが、 その泥臭さとのギャップに心底驚いた記憶があります。 営業をやってみて知ったのは、スランプのない人間はいないということです。 そしてトップを取り続ける人の強さとは、スランプをスランプにしない強さだということです。 マンネリ化して新鮮さを失い、成績が落ちることを怖れているかのようでした。 コミュニケーションにおいて新鮮さを失うということは一種の諦めに似ています。 相手に影響を与えることを諦め、伝わるように自分が工夫することも諦めていく。 私はその諦めないことで得られるものの素晴らしさを演劇に教えてもらいました。 そしてその素晴らしさがお客さんに伝わることの感動も知りました。 やっている時は必死なだけですが(笑) それはスポーツに似ています。 尊敬するドイツ人の演出家トーマス・オリバー・ニーハウスが良く言っていました。 「スポーティに」と。

真実を演じる

良く言われることですが、 演技の上の真実とはなんでしょうか? 演じることで一番起こりがちで、実は一番演じることを退屈にしてしまうのは、 どこかで観た演技を演じてしまうことです。 私たちは子供の時からTVで演技を目にしています。 その支配力というのは恐ろしいくらい大きなものです。 「生まれて初めて俳優として演技をする姿」も何度か見て来ましたが、 それでも多くの場合、どこかで観た演技を演じてしまう場合がほとんどです。 ふと、三船敏郎さんのエピソードを思い出します。 面接官に「笑ってみてください」と言われ、 「おかしくもないのに笑う事はできません」と 答えた三船さんを見て、黒澤明監督は衝撃を受け、 「こいつは大物になる」と思われたそうです。 勿論、一つの喩えに過ぎませんが、とても含蓄のあるエピソードだと思いませんか? でも同じことはもう使えません。 既に三船さんのエピソードとして有名ですから(笑)。 演じるという虚構の中で真実に取り組む姿勢について考える時、 演技を始めてしばらくして、箱根 彫刻の森美術館で出会ったあの言葉を思い出します。 私があの子供たちの年齢のときには、ラファエロと同じように素描できた。けれどもあの子供たちのように素描することを覚えるのに、私は一生かかった。 - パブロ・ピカソ - 大人になるとより社会的な判断、知ってて当然ということが増えてきます。 この判断の上げ底のようなものは、ときに真実を曇らせます。 くどいようですがもう一つご紹介します。 子供は誰でも芸術家だ。 問題は、大人になっても 芸術家でいられるかどうかだ。 - パブロ・ピカソ - 演技 の トレーニング は 大抵 大人 か ら 始 め ま す 。 そして演じるのは大抵大人の役です。 ゆえに、 演じるということは、無意識に身につけたものを意識的に選択していく作業だったりします。 勿論、それによって新人の時に持っていた素直さを失ってしまうこともあります。 新人の時の方が良かったというケースはとても多いです。 しかし、ずっと新人のままでいることは出来ません。 知ってしまったことを忘れてしまうことは出来ないのです。 であれば、 得ながら、かつ手放していくということが大事です。 己を曇ら

演じるということ

TVや映画などで多くの方が「演技」を目にされていると思います。 このブログではなるべく分かりやすく、 「演じる」ということを知って頂けるように努めたいと思っています。 20年以上、俳優として演じるということについてずっと考えてきました。 しかしこの瞬間まで、整理して分かりやすく伝えよう、書こうとは思いませんでした。 とかく実践家は口下手なものです。 特に公演中は口数が減っていきます。 しかし、普段演じるということから遠い方にも、 演じることの面白さを知って頂き、 よりドラマや映画、演劇を楽しめるようになって頂けたらと思い このブログを書き始めました。 演じる側と観る側の間柄について考える時、 いつも村上春樹のエッセイにあった言葉を思い出します。 物語は風。 揺れるものがあって初めて見える。 観る側の心が揺れる時、演じるということの本質が見えて来ます。 観る側の心に、演じる側はいつも多くを気づかされます。 だからこそ観る側の豊かさは、演じる側の豊かさにつながると信じています。 豊かな観る側の心に磨いて頂くことが、表現者としてのなによりの喜びです。 よろしくお願いします。