存在感

良く言われる「存在感」とはなんでしょうか?
人によってはオーラなんて言い方をしたりしますが,,,,

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以前、大河ドラマで福山雅治さんと初めてお会いした時、いわゆるオーラを感じました。
というより、あまりにメディアに露出されている方なので、初めてなのに初めてではない不思議な感覚に襲われました。
しかしその感覚もしばらくすると、次第に薄れていきます。

その時、ふと「オーラ」と呼ばれるものは、見る側が勝手に感じるものなのかもしれないと気づきました。

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ある時、ワークショップでモデルの方数名とご一緒したことがあります。

演技経験はほとんどないという話だったのですが、何とも言えない「存在感」があります。
初対面の演出家やプロデューサーの前では大抵の俳優は緊張します。
しかし、彼らにはその緊張が見えないのです。

確かに演技は経験ないのでしょうが、彼らはファッションショーや撮影など、人目に触れた状態で堂々と存在する訓練は受けています。

見られることに物怖じせずに堂々としている様は気持ちの良いものです。
「存在感がある」の対極が「頼りない」だとすると彼らはとても頼れる存在だと感じました。

それはまるでカメラに囲まれた中でも優れた成績を残すアスリートのようでした。

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今までの観劇体験で一番刺激的だったのは、「ポツドール」という団体です。

演出の三浦大輔さんは最近では「何者」や「娼年」などの作品でも活躍されています。

初めて観たのは岸田国士戯曲賞受賞後初めての公演でした。
「夢の城」という舞台でシアタートップスで上演されました。

幕が開くとベランダを外側から覗くように舞台上で複数の男女、いわばギャルとギャル男の生態が展開されます。
冒頭10分前後でしょうか?
ベランダ越しになんてことはない(こともないのですが(笑))生活を覗かされます。

車が行き交う音がSEで聞こえています。

そう、まるで向かいのマンションから覗いているような気持ちになってきます。
それも完売ですし詰めの客席が一体となって、見てはいけないものを見せられている気分です。

その後、暗転を挟み、ベランダが取り払われ舞台上に部屋が存在するだけになるのですが、何とも言えない刺激的な幕開けでした。

おそらく、始めから部屋のセットだけだった場合、観る側がだいぶソンタクして「リアルだ」と思い込まなければいけなかったと思います。
しかし、ベランダを挟んだ一場の後では、不思議と部屋だけになってからも違和感を感じないのです。

また秀逸だったのは演者たちの立ち居振舞いです。
まったく見られているという感じがないのです。

ガラス越しで室内(舞台上)だけ明るかったとすると、一場の間、演者には客席がまったく見えていない可能性があります。
遮られているので、空気すら共有していません。
そうだとすると、開始5分のもっとも緊張する時間をあれで中和している可能性があると思うのです。

いずれにせよあれほど舞台上の人物に没入させられた観劇体験は記憶にありません。

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夜歩いていると、灯りのついた部屋が不意に見え、中で生活する人を見てしまうことがあります。
当たり前ですが、とても「リアル」です。
その一瞬から生活やら、キャラクターさえ感じられるように感じてしまいます。

そう「存在感」があるのです。

そこには、見ているこちら側と見られているあちら側に、ある種のギャップがあるのです。

例えば動物園もそうです。

動物園には様々な動物がいますが、あまりに堂々としていて、珍しいものを見に来たつもりが、逆にこちらが珍しい来訪者であるかのように錯覚する瞬間があります。

たまたま目に入った他人の生活と動物園の共通点は、彼らにはそこが生活の場であり、当たり前のようにそこにいるということです。

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つらつらとエピソードを並べましたが、
どうお感じになったでしょうか?

例えば灯りの点いた部屋の住人は有名人でもモデルとして訓練を受けたわけでもありません。動物たちもそうです。

しかし、観る側の優位性や潜入感が裏切られた瞬間、ある「存在感」を人は感じるのかも知れません。

台詞に書かれてる以外の身体的な表現が観客に受け入れられるとなんとも言えない一体感が劇場に生まれます。

それは俳優の存在感を通して、観客が私生活から劇世界にいざなわわれるかのようです。

私生活でも堂々としている人の話は思わず聴いてしまいます。
リーダーに相応しいなどと思ってしまいます。

もしかしたら、観る側と観られる側の力関係の逆転に、「存在感」は生まれるのかも知れません。

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